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原発から保育園まで、多様化する迷惑施設と当事者の優位化【第5回】

野波 寬 (のなみ ひろし) 関西学院大学 社会学部

 社会全体(みんな)のために必要な公共施設。それは分かるけれど、でも我が家の近くに建てられるのはイヤ。
 いわゆる迷惑施設は、かつて原発や廃棄物処理場などが代表例だったが、最近は保育園や公園など、ご近所の身近な公共施設まで“迷惑施設化”する例が散見される。迷惑施設が多様化した背景とその解決策について、社会心理学や道徳心理学の研究をもとに解説してもらう。
 キータームは「NIMBY問題」と「当事者の優位化」、そして「トロッコ問題」。

第5回:思慮深い合意形成を導くために

 本稿では、社会全体(みんな)のために必要だけど我が家の近くはイヤだと誰もが拒否するNIMBYの構造をもった原発や廃棄物処理場の問題を取り上げ、そのNIMBY問題がいまや保育園や公園にまで広がりつつあること、また皮肉なことにその背景として、多様な人々の声を反映させるガバナンスの高まりがあることを指摘しました。ガバナンスの機運それ自体は望ましいことですが、決定のできない議論だけの議論が続く事態も頻発します。これを防ぐためには、「どんな決定をすべきか」の前にまず「誰が決定すべきか」について合意をはかっておく必要がある、というのが本稿の提起でした。
 
 原発でも保育園でも、その是非をめぐる議論の場で「誰が決定すべきか」の話を進めようとすると、行政も市民も誰しもが「地元住民を最重視すべき」と判断する傾向があります。本稿で「当事者の優位化」と呼んだ現象です。「当事者の優位化」は民主主義の原則や道徳的な配慮の面では正しい判断ですが、その一方で当事者による拒否の連鎖を生み、みんなにとって必要な公共施設がどこにも作れない共貧状態をまねきます。民主主義や道徳の上では正しいはずの「当事者の優位化」が、NIMBY問題では社会全体の公益を阻む非合理的で誤った判断になってしまうわけです。
 
 「当事者の優位化」が生じる心理的な背景として、本稿では「自分が当事者になったときに備えて当事者優先のルールをつくっておきたい」という格差原理と、「少数者の犠牲とひきかえに多数者が得をする不公平はおかしい」といった道徳的な判断を挙げました。NIMBY問題には「少数を犠牲にしても多数を救うべきか、その逆か」というトロッコ問題の構造があり、しかもその判断を行う自分自身が少数の側に入る可能性も否定できない構造です。自分が少数の側に入ることを想定すれば格差原理や道徳判断が強く作動し、誰もが「当事者の優位化」を起こすのも無理からぬことでしょう。
 
 しかし「当事者の優位化」の結末は上記のように共貧状態の招来か、あるいは前回で例示した地層処分場のように、将来世代に負担をもたらす世代間不公平の発生です。この解決には、格差原理や道徳判断に替わる判断原理が必要です。本稿の締めくくりとして、NIMBY問題の解決につながる新しい判断原理について考えてみましょう。
 
 まず気づくべきは、格差原理と道徳判断のいずれもが、自分自身や自分と同時代の人々との比較の上に成り立っていることです。当事者のポジションに入るのが「自分自身か」あるいは「時代を同じくするこの社会の中の、自分以外の誰か」なのか、この2者の比較です。言うなれば、現世代の中でのヨコの比較です。しかし前回で述べた地層処分場のように、NIMBY構造を持つ公共施設には現世代のみならず将来世代にまで影響を及ぼすものが少なくありません。たとえば保育園や児童相談所は、この時代の子どもたちや近い将来に生まれる子どもたち(および、その養育を担う世代)のための公共施設であり、これが不足したまま放置すれば若い世代の出産や育児への意欲を削ぎ、将来の子どもたちが生まれる機会の収奪につながります(第2回で述べたように少子化という共貧状態も生み出します)。保育園の建設に対する地元住民の反対意見を最重視した「当事者の優位化」は、現世代の中での不公平を消すことには役立ちますが、その反面、現世代と将来世代の間に不公平を発生させるわけです。この世代間不公平は、現世代の中でのヨコの比較ではなく、現世代と将来世代というタテの比較で見なければ、なかなか気づくことができません(ここで述べる将来世代とは、あなたやあなたの親族といった特定の血族や地域の子孫ではなく、同じ社会に暮らす見も知らぬ人々の子孫も含む、社会全体における集団としての子孫たちを指します)。
 
 タテの比較でNIMBY問題を見ると、いままで気づかなかった構造が見えてきます。NIMBY問題に「少数と多数いずれを救うべきか」というトロッコ問題の構造があることは先述のとおりですが、その「少数」と「多数」は現世代の中の少数派と多数派だけでなく、現世代と将来世代の対比としても成立するのです。保育園の例で言えば、現世代の中の「少数」と「多数」は地元住民とそれ以外の人々ですが、タテの比較で見ればこの「少数」と「多数」は、地元住民と将来世代でしょう。地層処分場の例ならば、ヨコの比較では「少数」と「多数」に地元住民と国民多数が、タテの比較では地元住民と将来世代が入ります。このように将来世代を含めて考えると、「誰の権利を重視すべきか」に関するあなたの判断基準に、何か変化が生じないでしょうか。
 
 近代的な民主主義や道徳的な価値観の目的は、できるだけ多くの人々の利益や幸福をできるだけ公平に最大化することでした。それ自体は正しいのですが、問題は、その目的のもとに成立した近代社会が現世代の利益を公平に最大化しようとするあまり、いまや恐ろしい勢いで将来世代の利益を奪い始めていることです。現世代が原発を利用し、その後始末を将来世代に押しつける経緯には、そのことが端的に示されています。さらに、原発の後始末に不可欠な地層処分場まで現世代の中でタライ回しをしあい、その過程で生じる「当事者の優位化」を当然視するところなど、私たちが自分たち現世代「だけ」の利益を「公平に」最大化しようと考えて、その「公平性」が民主主義や道徳の上で「正しい」と信じ切っていること、つまり将来世代に負担を押しつける不公平から目をそらすことを「正しい」と思いこんでいる不気味な現状を、私たちの眼前に突きつけるものと言えます。
 
 私たちが信じる近代的な民主主義や道徳は、現世代の利益を最大化する上では非常に便利な「道具」でした。しかしこの道具は、現世代の利益が将来世代の利益を収奪せずに伸びていける範囲の中でしか使ってはならないことに、もう私たちは気づくべきでしょう。見も知らぬ他人の子孫も含む人々、しかもまだ生まれてもいない人々を想定することは、かなり難しいことです。いわんや彼らの利益や幸福を最重視した上で私たち自身がそれに合わせた選択肢をとるために行動することなど、実際には困難きわまります。しかしこのような意思決定が可能であることは、最近になって社会心理学や実験経済学の分野でいくつかの実証がなされ始めています。決して不可能な意思決定、合意形成ではないのです。
 
 NIMBY問題における思慮深い合意形成とは、現世代の幸福の最大化を目指すものではなく、将来世代まで含めた幸福を軸として考えるところからスタートします。このようなタテの比較にもとづく判断原理は、本稿で論じたNIMBY問題のみならず、年金などの社会福祉問題、さらには地球レベルでの環境問題など、現世代が将来世代の幸福を急速に侵食しつつある多くの問題について考える際にも、指針となるはずです。
 

 

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野波 寬 (のなみ ひろし) 関西学院大学 社会学部 名古屋大学大学院文学研究科博士課程後期中退
同文学部助手を経て、現在、関西学院大学社会学部教授
主著:
『正当性(レジティマシー)の社会心理学』(ナカニシヤ出版, 2017)
『“誰がなぜゲーム”で問う正当性』(ナカニシヤ出版, 2017)ほか