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夏目漱石の予言 【第3回】―人生の本質 ―

半藤 英明(はんどう ひであき) 熊本県立大学 学長

明治時代から今日に至るまで、国語の教科書に作品が載る国民作家である夏目漱石。漱石は文学者として専門家のあいだで高く評価されながらも、大衆、社会レベルでは何を、どう評価すべきなのか、いまひとつ理解が行き届いていない。漱石の作品の価値を、現代への「予言」という切り口で象徴的に解説するシリーズ連載。

 漱石は「幾分の労力を寄附した」とする『文学論』を、その「序」で未完品や未定稿と呼び、後には「失敗の亡骸(なきがら)」と表明した(「私の個人主義」)。そのような卑下は必ずしも正当ではなく、「自己が主で、他は賓であるという信念」(同)に基づいた渾身の学術書には一定の満足があったと見られる。著作による自己本位の成就を生涯の事業と決意しつつ纏められた『文学論』は、作家人生を貫く指針となっている。現実でなくとも現実なみに現実的な文芸の世界を創造することで、現実に存在するはずの真理を語る。つまり「文芸上の真」によって描くべきは何か。それが作家漱石の原動力であった。
 
 自らによる文芸の建設に向け、科学的な研究や哲学的な思索に耽り出した漱石の問題意識と批評精神は、人の存在そのものに向かった。処女作『吾輩は猫である』では、猫の「吾輩」が甕のなかで死ぬことになるが、「吾輩」に静寂の太平が訪れても、それまでの小うるさい現実世界は何ら変らずに続いていく。『坊つちゃん』では、「清」亡きあとの坊っちゃんの人生にどんな幸があったのかと想像が膨らむ。『草枕』では、心の夫を駅で見送り、愛にはぐれた「那美」がどんな振る舞いを見せるのかと気になる。『虞美人草』では、いくら母娘の非常識にまみれようとも、彼らも周囲も自身の人生を生きるのみである。『三四郎』では、「美禰子」が三四郎の前から去っても、三四郎の穏やかならぬ青春は続く。『こころ』では、先生と私の濃密な関係が終わっても、残った「私」は先生を思い出として生きていくことになる。漱石の小説はほぼ全て、人はその人生を送るのみであり、誰がどうなろうと人の世は続いていくという主張で貫かれている。胃弱で不健康だったからではなく、無常観に支配されていたからでもない。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない(『草枕』)から、人は自ら生きていく他にない。なればこそ、漱石は人の多くが自分の力を発揮できずに死んでいるだろうと嘆き、機会をとらえては自分の力を試すようにと言い放つのである。

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半藤 英明(はんどう ひであき) 熊本県立大学 学長 熊本県立大学学長。副学長、学術情報メディアセンター長を経て現職。博士(文学)。専門は日本語学(文法)、明治期の文学表現。一般社団法人公立大学協会理事、一般社団法人大学コンソーシアム熊本代表理事などを歴任。公益財団法人大学基準協会大学評価委員会委員、同基準委員会委員、熊本県私立学校審議会委員など。