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第5回:今日こそ考えるべき「文明」と「文化」のバランス主義

馬 彪 山口大学大学院東アジア研究科教授

漢字文化とアルファベット文化との間に相異があるように、箸文化は西洋のフォーク文化と比べてみると、西洋式のようになにもかもNo.1になりたいのと違い、全ての事に二分極点(二本の箸)の平衡がとれることを強調する「箸文化圏」の箸文化のバランス意識である。本論はこのような箸文化のバランス意識について、物・物関係のバランス意識;人と物関係のバランス認識;人・人関係のバランス感覚などの特徴を見るものである。

 
最後に、再び本論の動機の一つとなった管子の「倉廩実つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る」という話にもどろうと思う。すでに述べたように、「倉廩」「衣食」とは物質的な所産、「礼節」「栄辱」とは精神的な所産であり、前者はcivilization、後者はcultureであるが、西周の訳語によると二者は文明と文化との区別にあたる。たしかに、21世紀に至っての今日は管子より2700年以上、西周より約200年経ち、「衣食」「礼節」「文明」「文化」の様式とそれについての認識とも大分かわってきたのは事実である。

 
しかし、人類の歴史の流れにはいつでも変わったことがあるとともに、変わらないこともあるのではないだろうか。例えば、「文明」「文化」についての定義は今でもいくつかの新しい説があっても、人間の物質の所産と精神の所産というのは両立であることは変わらないだろうか。少なくとも以下の当年西周のした定義は本質的に正しいのではないかと思う。文明とは人間の外的活動による技術的・物質的所産であり、文化とは宗教・道徳・学芸などの精神的所産である。

 
ここで、避けられない問題の1つである、すなわち箸文化における「文化」と「文明」との相異点はどこにあるかについて。極単純にいえば、箸の発明やその使用は文明であるとはいえ、箸からすべてのことに二分化する意識とそこから生じた観念的なものは文化のカテゴリーに属する。文明は文化の土台であり、文化は文明よりいっそう発達したものである。

 
実は、「文化」と「文明」との2つの概念は、別々に使うときには意味をはっきり区別しない場合がある。例えば「中国文明」と同じ意で「中国文化」とも言う。しかし、「文化」と「文明」を一緒に使うとき、「文明」は生産様式や生活の豊かさを指し、「文化」は殆ど精神の面について使う。つまり、文化は言語符号や思想や芸術や生活習慣や伝統などであり、文化の精髄は民族として特別な教育に類したものをもっていることもある。それはなにものにもかえがたい修練を積むことであり、一朝一夕に出来あがるものではない。箸文化のバランス意識はまさにこのような存在であろう。

 
少々話が脱線するおそれがあるが、中国文明や文化について世界的な評価はなんだろうかと考えれば、これまで最も有力とされている東洋人の歴史学巨匠の内藤湖南氏と、西洋人の歴史学泰斗のトインビー氏の説を紹介しておきたい。なぜなら、二氏とも世界史のなかにおける中国の歴史、とくに文明史と文化史の位置を把握した偉大な結果を残したからである。

 
内藤湖南に「支那(中国)文化発展の全体を通観すれば、宛も一本の木が根より幹を生じ葉に及ぶが如く、眞に一文化の自然発達の系統を形成し、一の世界史の如きものを構成する。日本人も欧洲人も、各々自国の歴史を標準とする故、支那(中国)史の発展を変則と見るが、それは却って誤って居り、支那(中国)文化の発展は、文化が眞に順當に最も自然に発展したものであつて、他の文化によって刺激され、他の文化に動かされて発達して来たものとは異ってゐる」とした(『支那上古史』(『内藤湖南全集』第十巻収録)「緒言」)。内藤湖南に中国文化の発展は一本のまともな木と譬えられ、日本・欧洲のような「他の文化に動かされて発達して来たもの」とは違う、史上唯一の一文化の自然発達の系統であると結論づけた。

 
『歴史の研究』という巨著によって高名となったイギリスの歴史家のトインビーは、6千年の人類史上26の文明形態を全体的に把握した上で、「中国人にあっては、世界のどんな民族よりも首尾よく、数億の民を数千年にわたって政治的・文化的に結束させてきています。彼らはこうした政治・文化的統合の技術を示し、それに成功したという類いまれな経験をもっているわけで、しかもそうした統合化こそが、今日の世界の絶対的要求なのです。中国人が、東アジアの諸民族と協力して、この不可欠かつ不可避と信じられる人類統合の過程のなかで、主導的な役割を演じるだろうという理由は、ここにあるのです」として、「未来において世界を統合するのは、西欧の国でも西欧化された国でもなく、おそらく中国であろうと考えられます。」(『二十一世紀への対話 下』「一つの世界へ」)と中国文明に期待した。

 
では、このようなどんな民族よりも首尾よく、数億の民を数千年にわたって、自然に発達してきた中国文明や文化が形成された原因があるはずであるが、それはなんだろうかという課題がのこされた。先哲らはこの課題についての回答はいろいろあったが、本論にしたがって少なくとも箸文化のバランス主義とは、その原因の一つではないかと考えられる。なぜなら、どんな時代にも極端な指導策がなく、またなんの極端な突発的環境が発生しても、統治者のみならず、人々全員のバランス意識によってコントロール機能を発揮できれば、「首尾よく、数億の民を数千年にわたって」、「眞に一文化の自然発達の系統」となった原因であるといっても過言ではないだろうか。

 
さらにいうと、箸の誕生地と考えられる中国を始めとして、箸文化圏に入っている国々・人々は共通してる「中庸」や「集団主義」などのバランス意識をもって積極的に西洋の「ナンバーワン」や「個人主義」意識に向き合わせて、今日の現代社会問題に対応する必要があるのだろうかと思う。

 
一方で、管子・西周の時代を大分こえた今日には、人類文化学の研究も発達してきたのも現実であろう。そこで、西周の提出した「文明」と「文化」の間に、また「制度文化」を入れた成果が無視できないだろうか。たしかに、どんな時代においても管子の言った「栄辱」とは精神文化と呼んでもよいが、「礼節」とは、文化学者に言った「慣習・道徳などのように、人間の社会生活や行動面を具体的規定している制度文化」だと呼んだ方がいっそう合理性があると思う。

 
しかし、さらにいうと「礼節」という制度文化こそ、「倉廩」「衣食」という物質的な所産と「栄辱」という精神的な所産とのバランスを取ってからの所産ではないか。「文明」や「文化」をどうのように定義した方がよいかとの問題は専門家に任せようと思うが、要するに物質面と精神面のバランスをとることこそ、合理的な制度が創られる前提である。

 
21世紀における富の偏在、環境・資源の限界など、なおいっそう深刻化するポストモダンの課題に面して、グローバル化と反グローバル化の時代風潮における私たちは、いかにして東洋の文明と西洋の文明の対立を避けるかとの使命を持って、外の物質文明と内の精神文化のバランスをうまく取って、内外面を融合させる美しい制度文化ができあがればよいかというお祈りは著者だけの思いではないであるだろうか。

 
最後に、トインビー氏の東アジア特に日本の役割が21世紀の世界にどのように発揮されるかの話を借りて本論の結びとしよう。「日本は最終的には、中国、ベトナム、朝鮮と一致協力して、将来それを中心とする全世界の統一がなされるべき、一つの軸を形成することでしょう」というように頑張れている今日こそ、本論で述べてきた東アジア「箸文化圏」とその「箸文化」のバランス主義を考えるべきではないか。

 
 
 
 

引用文献・参考文献


◆太田昌子『箸の源流を探る 中国古代における箸使用習俗の成立』汲古書院、2001年
◆酒井潔,佐々木能章,長綱啓典著『ライプニッツ読本』東京:法政大学出版局、2012年
◆内藤湖南『支那上古史』『内藤湖南全集』第十巻、筑摩書房、1969年
◆A・J・トインビー『歴史の研究Ⅰ』東京:「歴史の研究」刊行会、1966年
◆A・J・トインビー『図説 歴史の研究』学習研究社、新版全3巻、1976年
◆A・J・トインビー・池田大作『二十一世紀への対話 下』文藝春秋、1975年3月
◆楊明華『有関文化的100個素養』台北:駅站文化2009年7月
◆馬彪「東アジア伝統の「統」「伝」「格」について」『東アジア伝統の継承と交流』(東アジア研究叢書3)白帝社、2016年3月pⅰ-ⅷ

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馬 彪 山口大学大学院東アジア研究科教授 1955年生まれ。歴史学博士。  1995年以来、北京師範大学歴史学部からの訪問研究員として来日(1995~1999東京大学、1999~2001京都大学)  2002年から現職(山口大学大学院東アジア研究科)    主要著書: ・『秦漢豪族社会研究』(中国書店2002年)  ・『秦帝国の領土経営:雲夢龍崗秦簡と始皇帝の禁苑』(京都大学学術出版会2013年)など(他20冊余)  ・論文100本余り。  古代と現代、中国と世界の境に跨ってる「境界人学者」と呼ばれる。