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原発から保育園まで、多様化する迷惑施設と当事者の優位化【第2回】

野波 寬 (のなみ ひろし) 関西学院大学 社会学部

 社会全体(みんな)のために必要な公共施設。それは分かるけれど、でも我が家の近くに建てられるのはイヤ。
 いわゆる迷惑施設は、かつて原発や廃棄物処理場などが代表例だったが、最近は保育園や公園など、ご近所の身近な公共施設まで“迷惑施設化”する例が散見される。迷惑施設が多様化した背景とその解決策について、社会心理学や道徳心理学の研究をもとに解説してもらう。
 キータームは「NIMBY問題」と「当事者の優位化」、そして「トロッコ問題」。

第2回:当事者が決めるべき……人々の善意がもたらす悲劇

 前回の話で、迷惑施設をめぐって多様な人々が話し合う際には、「どんな決定をすべきか」の前に、まず「誰が決定すべきか」の合意が大切だ、と述べました。「誰が決定すべきか」「その決定権の根拠は何か」についての判断は人ごとにバラバラなことが多いので、ある決定をみんなが受け入れる上では、決定の内容もさることながら、「誰が決めるのか」という面で合意をはかっておくことも、大切なのです。
 
 迷惑施設をめぐる「誰が決めるべきか」の判断は、人ごとにバラバラになりやすい。ところが1つだけ、ほとんどと言ってもいい場面で成立する、「誰が決めるべきか」についての合意パターンがあります。当事者(地元住民)重視、というものです。原発であれ廃棄物処理場であれ、身近な保育園や児童相談所などであれ、迷惑施設をめぐっては「地元住民が決めるべき」、あるいは「地元住民を最重視すべき」という合意が、およそどんな場面でも成立します。行政や省庁も、地元重視の姿勢を打ち出すことが多いようです。
 

当事者の優位化は本当に正しいのか

 迷惑施設をめぐる「誰が決めるべきか」の判断で、多くの人々が地元住民を第一に置く傾向を、ここでは「当事者の優位化」と呼びましょう。「当事者の優位化」はあまりにも当たり前のことで、これがなぜ起きるのか、これは本当に正しいのか、などと考えること自体、何やら剣呑で、不遜な話であるかのように感じられるかもしれません。なぜそこまで感じてしまうのかという理由はまたのお話として、ここではひとまず、「当事者の優位化」が本当に正しいことなのかを論じてみましょう。
 
 迷惑施設の是非をめぐる「当事者の優位化」が正しいことか否かは、それがもたらす結果を考えれば、かんたんに結論が出せます。
 
 廃棄物処理場を例に考えてみましょう。ゴミの最終処分場(焼却場)があなたの近隣に建てられると、あたりはゴミ満載の収集車の往来や異臭が増えます。あなたは焼却場の建設に反対し、地元住民である自分の意見は最も重視されてしかるべきと考えます。まわりの人々も、焼却場の建設で様々な負担が及ぶあなたの意見を尊重することを「当然のこと」と共感します。かくして、地元住民の意見を最重視すべきとの合意が、地元住民のみならず多くの人々に成立します。行政もその“世論”に押され、焼却場の建設は撤回となります。
 
「当事者の優位化」が生じた結果、見事あなたの意見が通ったわけですが、問題はこの後です。焼却場がどうしても必要な行政は、新たな代替地を探します。ところが、次の代替地でも、また同じように地元の反対、人々の共感、そして撤回。この繰り返しで、焼却場はどこにも建設できません。その間、ゴミは焼却できず回収もままならず、あなたの近隣にも町中にも、ゴミがあふれかえる結果となります。果たしてこれは、あなたにとって望ましい結末でしょうか。
 
 これでお分かりのように、「当事者の優位化」は迷惑施設に対する当事者からの拒否の連鎖を生みます。そうなると、みんなにとって必要な利益(公益)が作り出せず、結局のところ、あなた自身を含むみんなが困る事態へと陥ってしまうのです(社会心理学で「共貧状態」といいます)。上の例は廃棄物処理場ですが、保育園や児童相談所であれば、これらが地元住民の反対意見を重視する「当事者の優位化」によって建設できなくなると、重要な公益である次世代の養育がゆらぎ、少子化という共貧状態を助長してしまいます。このような結果になるのは、前回で述べたように、迷惑施設がNIMBYの問題をはらみ、近隣には迷惑でもみんなにとって必要な施設、だからです。
 
 結論を述べましょう。迷惑施設をめぐる「当事者の優位化」は、少数者の尊重という民主主義の原則を守り、困っている人、あるいは今後困るであろう人々を助けるという道徳的な配慮の点では、好ましい判断と言えます。つまり民主主義や道徳の面では、正しい判断です。しかし、一人でも多くに幸せを分配するため社会全体での利益を作るという合理的な視点で見ると、「当事者の優位化」は、当事者となる人々の決定しだいで公益が阻まれ、多くの人々が不幸せになる可能性を高めます。したがって合理的な面では、「当事者の優位化」は明らかに正しくない、誤った判断なのです。
 
 迷惑施設の是非をめぐって私たちが「当事者が第一」と判断することは、少数者の尊重や困窮する人を救おうといった、いわば善意の行動とも言えるでしょう。しかし迷惑施設はNIMBYの問題をはらむため、当事者を優位化する人々の善意は、結果的に多くの人々の負担を増やしてしまう悲劇にもつながりやすい。迷惑施設をめぐる「当事者の優位化」は、人々に「善意の悲劇」をもたらすリスクが高いのです。
 
 迷惑施設の問題を解決するためには、「善意の悲劇」を回避しなければなりません。
 次回以降、その手立てについて考察してみましょう。

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野波 寬 (のなみ ひろし) 関西学院大学 社会学部 名古屋大学大学院文学研究科博士課程後期中退
同文学部助手を経て、現在、関西学院大学社会学部教授
主著:
『正当性(レジティマシー)の社会心理学』(ナカニシヤ出版, 2017)
『“誰がなぜゲーム”で問う正当性』(ナカニシヤ出版, 2017)ほか