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原発から保育園まで、多様化する迷惑施設と当事者の優位化【第3回】

野波 寬 (のなみ ひろし) 関西学院大学 社会学部

 社会全体(みんな)のために必要な公共施設。それは分かるけれど、でも我が家の近くに建てられるのはイヤ。
 いわゆる迷惑施設は、かつて原発や廃棄物処理場などが代表例だったが、最近は保育園や公園など、ご近所の身近な公共施設まで“迷惑施設化”する例が散見される。迷惑施設が多様化した背景とその解決策について、社会心理学や道徳心理学の研究をもとに解説してもらう。
 キータームは「NIMBY問題」と「当事者の優位化」、そして「トロッコ問題」。

第3回:トロッコ問題としてのNIMBY問題

 NIMBYの問題をはらむ迷惑施設の是非。そこで広範に発生する「当事者の優位化」は、少数者や当事者を守るべしという民主主義や道徳の面では正しい判断ですが、その反面、当事者となる人々の決定しだいで公益の阻害にもつながりますから、社会全体での利益を作るという合理的な視点で見れば、これは明らかに誤った判断であることを前回で説明しました。
 
 迷惑施設をめぐる「誰が決めるべきか」の判断は、人ごとにバラバラになりやすい。ところが1つだけ、ほとんどと言ってもいい場面で成立する、「誰が決めるべきか」についての合意パターンがあります。当事者(地元住民)重視、というものです。原発であれ廃棄物処理場であれ、身近な保育園や児童相談所などであれ、迷惑施設をめぐっては「地元住民が決めるべき」、あるいは「地元住民を最重視すべき」という合意が、およそどんな場面でも成立します。行政や省庁も、地元重視の姿勢を打ち出すことが多いようです。
 
 NIMBY問題で当事者の権利を優位化すると公益の達成が難しくなる、こんなことはいまさら改めて説明するまでもない、誰にでもすぐ理解できる簡単な予測でしょう。しかし、「当事者の権利を一番に考えていたら迷惑施設はどこにも立地できず、結局みんなが困る」ということは誰にでもすぐ理解できるのに、実際にはその「当事者の優位化」が、広範な場面で生じます。合理的な選択肢が何であるかはみんなわかっているにもかかわらず、どうしたわけか、非合理的な選択が全員の合意として成立することが多い。これは、なぜでしょうか。
 
 社会心理学サイドからは、この問いに2つの回答を述べることができます。
 
 まず1つ目。迷惑施設をどこに立地するかをみんなで議論するとき、人々は「自分のところに立地が決まったら」「自分が当事者になったら」という事態を考えます。自分が迷惑施設の当事者になるのは誰にとっても望ましくないことですから、誰もがこれを避けるために、誰が当事者になってもその事態を拒否できるルールを、みんなで成立させようということになります。自分自身が最も望ましくない状態に陥った場合に備え、その状態の人々に対して最も有利な条件を与えておこうというわけで、米国の哲学者ロールズはこれを「格差原理」と呼びました(ちなみにロールズは、個人の自由と権利、それを保障する公正の原理を最大に尊重する哲学を大成させ、これが現代の私たちにも大きな影響を及ぼすリベラリズムのルーツです)。迷惑施設の立地をめぐって当事者に最も高い決定権を認めようという「当事者の優位化」は、自分自身が当事者になった場合に備えての、いわば自分自身の損害を最小にする保険のような判断といえます。
 
 2つ目は、「少数者を守るべきだ、被害者を救うべきだ」あるいは「誰かの損害とひきかえに別の誰かが得をするような不公平は許されない」といった、いわば“人としてあたりまえ”の道徳的な判断が、「当事者の優位化」を導くというものです。上に述べた「格差原理」が、人々にとって自分自身の損害を少なくするための(きわめて合理的な)判断であるのに対し、この道徳的な判断は、自分自身の損得を計算した結果ではありません。それこそ“人としてあたりまえ”の直観にもとづいた、「勘定」ではなく「感情」による判断といえます。
 
「感情」にもとづく道徳的な判断が合理的な判断を変えてしまうことを、かんたんな思考実験で確認してみましょう。次のような2つの場面を想像して、それぞれの場面であなたの判断を決めてください。あくまで思考実験であり、どちらの場面でも、あなたがどんな判断を下したとしても、法律や世間による非難はいっさい生じないとします。
 
場面①
「トロッコが暴走し、このままでは線路上の作業員5人が犠牲になる。彼らを助けるためにはあなたが転換器を押してトロッコを予備線路に入れることが唯一の方法だが、そうすると予備線路の上にいる1人が死ぬ。あなたは、5人を助けるためにトロッコの進路を変えるべきか(あなたの選択肢は転換器を押すか否か、だけ)」

 
場面②
「暴走したトロッコの線路上に5人の作業員がいる。あなたはその線路を見下ろす歩道橋におり、隣には大きな体の見知らぬ人が立っている。この巨体の人を突き落してトロッコにぶつければ線路上の5 人を助けることができるが、そうすればむろん、この見知らぬ人は死ぬ。5 人を助けるためにこの人を突き落すべきか(あなた自身が飛び降りても、あなたの細い体ではトロッコを止められない)」

 
 この2つは、それぞれ「トロッコ問題」「歩道橋問題」と呼ばれ、私たちの道徳的な判断を問う有名な命題です。さあ、あなたの判断はどうだったでしょうか。
 
 場面①のトロッコ問題では、転換器を動かしてトロッコを予備線路に入れ、1人とひきかえに5人を救うという選択をした方が多かったはずです。
 しかし場面②の歩道橋問題では、巨体の人を突き落とすことをためらい、暴走トロッコが線路上の5人をひき殺すにまかせる、という選択をした方が多かったことでしょう。
 
 実はこの2つ、「1人を犠牲にしてでも5人を救うべきか、またはその逆か」という構造そのものはまったく同じで、ただ呈示のやり方を変えているだけなのですが、にもかかわらず、場面①のトロッコ問題では「5人を救う」、場面②の歩道橋問題では「1人を救う」と、逆の回答をする人が多い傾向があります(上記のように)。トロッコ問題は、人々に「転換器を動かすことで多くの人が救えるのなら、実行しよう」という合理的な判断を促すのですが、歩道橋問題では、「私の手で他人を突き落とすなんてイヤだ、たとえそれによって多くの人を救えるとしても、直接手を下して他人を死なせるのはどうしてもできない」という“人としてあたりまえ”の道徳的な嫌悪感(つまり「感情」)が湧きあがり、1人を突き落とすことをためらう人が多くなるのです。
 
 合理的な選択肢が何であるかは明白なのに、場合によって私たちは、明白であるはずのその合理的な選択をとらなく(と「れ」なく)なってしまう。その原因が「感情」にもとづく道徳的な判断にあることが、このかんたんな思考実験からもわかりますね。
 
 原発や廃棄物処理場、最近では保育園や公園や児童相談所といった身近な公共施設の是非にまで拡大しつつあるNIMBY問題。これらは、利害や価値観の異なるおおぜいの人々を巻きこみ、社会的にも影響が大きい問題ですから、本来は冷静な思考にもとづく議論が必要なはずです。「感情」的な判断がこの決定を左右するのはよろしくない、と筆者は考えます。
 
 しかしNIMBY問題には、「少数を犠牲にしてでも多数を救うべきか、またはその逆か」という、上記のトロッコ問題や歩道橋問題の側面があります。NIMBY問題はトロッコ問題(あるいは歩道橋問題)でもあるのです。このため、道徳的な判断―すなわち直観的で「感情」的な判断が、合理的な選択を阻んでしまうことが起きやすい。NIMBY問題における「当事者の優位化」は、直観的で「感情」的な判断を背景として発生する、道徳判断の1種ともいえます。この判断の根底に何があるのか、引き続き次回で、もう少し探ってみます。

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野波 寬 (のなみ ひろし) 関西学院大学 社会学部 名古屋大学大学院文学研究科博士課程後期中退
同文学部助手を経て、現在、関西学院大学社会学部教授
主著:
『正当性(レジティマシー)の社会心理学』(ナカニシヤ出版, 2017)
『“誰がなぜゲーム”で問う正当性』(ナカニシヤ出版, 2017)ほか