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アニメ「The Last Unicorn」―新資料から作品の主題や映像表現を考察する― 【第1回】

黒田 誠 (くろだ まこと) 和洋女子大学 准教授

世界的な人気を誇るアメリカのファンタジー作品「The Last Unicorn」。この連載では、原作と、日本の伝説のアニメプロダクションによって成されたアニメ版を比較することで、「The Last Unicorn」の哲学的主題を考察する。さらに、絵コンテやシナリオなど未公開の資料を詳細に検証することで、 原作とアニメ版に取り入れられている思想的な要素や優れた特質を探る。

第1回 「原作の再評価の機運とサブカルチャー文化の影響」

ピーター・S・ビーグルのファンタシーThe Last Unicornは、1968年の刊行以来世界各国で翻訳がなされ、幾度も版が重ねられて人々に親しまれ続けてきた。我が国でも1979年にファンタジーの邦訳を開始したハヤカワ文庫FTで日本語訳が刊行され、根強いファンの支持を集めている。しかし同年に出版されたアシュラ・ルグインの『ゲド戦記』が刊行直後から批評家達の注目を集め、文学研究者の手によっていくつもの研究書が書かれたことと比較すると、その扱いには大きな違いが見受けられるように思える。『ゲド戦記』が現代の行き詰まった科学的世界観に対する警鐘として、魔法の仮定する全一主義的な思想的背景が高く評価されたのに対して、同様に魔法が重要な哲学的主題として採り上げられているにもかかわらず、『最後のユニコーン』に対する研究者からの反応は意外な程に低調だった。

 

社会現象としてファンタジーを論評する書籍で採り上げられる際にも、The Last Unicornに対してはその大衆受けする要素を辛辣に分析して、あからさまに批判する語調が目につくことも多かった。様々な意味で共通項を持つこれら二つの作品はこの後70年代アメリカ文化を牽引することになったのだが、ある意味で対照的な要素も備えていた。

 

ルグインの創作のスタンスは、発表当時の学術研究者達の意識に訴えかける思想的な要素を備えていて、メインストリーム文化の要望する時代感覚に適合していた。しかしビーグルの創作スタイルは、当時の一般読者が抱く潜在的願望にぴったりと重なるものではあったが、アカデミックな場で評価を得るためにはある意味で時代的には少し遅すぎ、またいささか早すぎるものでもあった。

 

現在いくつかの大学の学位請求論文でThe Last Unicornが学術研究対象として積極的に採り上げられ、ビーグルが熱心に語り直されようとしている状況を確認することができる。その顕著な傾向は、量子力学の発見によって認証された無数の矛盾を並列させる多義的な重ね合わせの存在原理と、ユング心理学が錬金術の理念の中に見出した原型概念の再評価にある。これらは欧州において19世紀末から20世紀初頭にかけて教養人の関心を惹きつけていた、心理学的宇宙像再構築の機運に同調するものであった。アインシュタインの相対性理論の発表と並行してジェイムズ・M・バリの『ピーターとウェンディ』にも、形而上学的宇宙論構築の意識が反映されている。

 

このような精神土壌の変化を視野においてみると、アメリカの文化状況自体の変化と重ね合わせて、The Last Unicornという希有な内実を備えた作品の実相の再評価を図ることができそうに思える。そのためにはこの名作のしばしば見落とされることも多い微妙な特質と、そこに関わるアメリカ文化の変容をも再確認しておく必要があるだろう。殊に日本のアニメやゲームに代表されるサブカルチャー文化が与えた影響と、その完成に至る諸要素の伝播と受容のあり方が、新たな視野の許に再検証される必要がある。その好例と思われるのが、1982年にアメリカのランキンバス社によって制作された、アニメ版のThe Last Unicornだ。この作品は当時同社の下請けとして映像部分を担当した日本のトップクラフト社によって稀に見る見事な演出を施されたことで知られているが、残念なことに日本では未だ公開がなされておらず、日本語版ディスクのリリースもなされていない。

 

The Last Unicornは、しばしば誤解されているほど典型的なファンタジー文学作品ではない。実はこの作品の基調をなしている特質は、様々な文章表現を通して確認することができる、知的な思弁性と自省的意識にある。一見行き当たりばったりの進行を示すかのように思われるストーリー展開の背後に、文章記述の粋を凝らした仮構的意味の創造が図られているからだ。情報の収集や条件の蓄積等の、本来ならば物語の主軸となるべき要素の否定を通して、ユニコーンという存在の象徴的意味の主張を図るという創造戦略を、この作品には読み取ることができる。いかにも類型的なジャンル特質を導くと思われる怪獣の出現や魔法の行使は、詳細にそれらの記述を行う文脈を追ってみると、ファンタジー世界構成要素そのものに対する懐疑を反映して韜晦的にさえ語られている。それは本編の主人公であるユニコーンの実在を否定する要素を作中に導入する極めてアイロニカルな非在性の記述表現と、おとぎ話であることを作中の人物が明確に自覚しているというメタフィクション的構造に見て取ることができる。

 

このような『最後のユニコーン』の仮構的特質を、メタフィクションとアンチファンタジーという二つの指標を掲げることによってより効果的に指摘することができる。しばしば素朴な情念的嗜好の対象物と決めつけられることも多いファンタジー文学の類型に反して、ビーグルの手になる傑作ファンタジーは典型的なファンタジー的特質要素を覆すと思われる破壊的な傾向を備えているのだ。

 

自省的性向を示す記述はしばしば意味の破壊を行うナンセンスの効果を発揮し、描き出されたものは特定の指示対象を失ってしまうため、その記述は非在性を語る文脈となる。人の姿に変えられてしまったことを嘆くユニコーンに、シュメンドリックはかなり危うい言葉を語って聞かせている。

 

「もしも僕があなたをサイの姿に変えていたとしても、あなたには何の違いも無いことでしょう。ユニコーンなんていう伝説がそもそも起こったのは、もとはと言えばこの動物からなのですが。けれどもこの乙女の姿でなら、ハガード王のところにたどり着き、他のユニコーン達に何が起こったのかを見つけだすこともできるのです。ユニコーンのままであったなら、あなたは他のユニコーン達と同様の運命に従うしかありません。次にレッド・ブルに出会った時、彼を打ち倒すことができると思うのでない限り」

 

 

 

ユニコーンの姿が人間の娘に変えられてしまったことに対して言い訳をする、魔法使いシュメンドリックの言葉だ。この人物は魔法を行使する技は未熟だが、魔法の意義と事象の生成・転変に対する総合的解釈に関する部分では、際立って優れた判断力を有している。彼が“馬鹿げた話”と呼ぶのは、ユニコーン伝説のことに他ならない。シュメンドリックは、ユニコーンがサイに関わる伝聞から派生した想像上の存在であることを知っていて、こう語っているのだ。ユニコーンの存在をフィクションとして認める、作品外の醒めた視点が暗示されている。

 

アニメではユニコーンの非在を示唆する映像表現として、偽りのユニコーンの影とユニコーン伝説の起源となった一角鯨を併置する工夫を導入している。The Last Unicornは、無邪気なファンタジーの風を装って論理的難題を導入する、辛辣な要素を含むおとぎ話なのだ。そればかりでなく、自己否定を通してファンタジー文学と仮構そのものの意味性をも解体する罠を主題の中に封じ込めた、陥穽的著述でさえもある。そしてこの幼児性を装った高踏的な知的傾向は、『ピーターとウェンディ』に端を発して今では日本のマンガやアニメに継承されて隆盛を極めている、新傾向の思弁的表現行為であった。人々の語り伝えてきた偽りのユニコーンを描いたタペストリーを背景にして真実のユニコーンが人の姿を装った反映的記述が、アニメでは採用されている。

 

 

 

【画像の出典】
黒田誠『研究 アニメーション The Last Unicorn』 2012

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黒田 誠 (くろだ まこと) 和洋女子大学 准教授 和洋女子大学でファンタジー文学、アニメ、ゲーム、フィギュアなどのサブカルチャー文化を教授。
『アンチファンタシーというファンタシー』『アンチファンタシーというファンタシーII ピーターS. ビーグル 最後のユニコーン論』『研究 アニメーション The Last Unicorn』『存在・現象・人格ーアニメ、ゲーム、フィギュアと人格同一性』など著書多数。