連載

一覧

グローバル化時代と英語力【第1回】――ファション感覚の「英会話」

中田 康行 (なかた やすゆき) 芦屋大学 臨床教育学部

英会話力とは何かという問題から説き起こし、英語学習を難しく思わせる同形異品詞、同形多義性、同形多機能などの問題を具体的に紹介し、文(法)構造への習熟の重要性を示唆した。また、英語の聞き取りとの関連で、聞き取りにくい音、さらに聞き取り力のベースには文構造把握力と習熟が深くかかわっていることを論じた。

1「英会話力」は妄想か

 大型書店の「言語学」のコーナーにちょっと立ち寄ってみると、その幾つかの書棚の半分くらいを「英会話」関連の書物が占拠している。イギリスやアメリカの大型書店で「……会話」などと題した書物が日本の場合のように所狭しと並べられている光景を筆者は見たような記憶はない。
 
 英会話のテキストを何冊かやれば、本当に英会話力が上達すると考えるのは妄想である。発音、文法力・語彙力をそれなりに相当修得もしないで「アメリカ等の英語圏の国に行ったら何とかなるものだ」と簡単に思い込んでいる軽率な主張もこの妄想の類である。(そのような修得も全く無いままにアメリカに行って、一年半もアメリカで家政婦の仕事をしていたグァテマラ出身で25才の女性の報告例などがあるが、彼女は殆ど英語が身に付かないままであった。)英語圏の国に行って、それなりに飛躍的に運用力を伸ばすことが出来るためには、日本で既に文法・語彙・発音などの基礎がかなり既に身に付いていなければならない。「行ったら何とかなる」といった安易な思いでは、何ともならない。
 
 また、こともあろうに英会話や、それに類する実践書が、場合によっては「言語学」という範疇の中に入っているのも驚きである。英会話や実践書にどのような組織だった体系や理論的根拠・背景があるのだろうか。(敢えて言えば、文部科学省の指導要領に準拠した等級付けくらいのものか。)それ故、会話などのテキストは場面、場面ごとの空港、ホテルのチェック・イン、レストラン、ショッピングなどでの会話場面の言葉の遣り取りが殆どである。
 
 以上のような個々の場面ごとの言葉の遣り取りに何か専門用語や理論的背景があるのだろうか。英会話力などというものは基本的には存在しない。そのようなものが何か厳然とあるかのように一般人は思い込んでいるのではないか。日本語を考えた場合、「日本語会話演習」等というような実践書など無いだろう。それは私たち日本人にとっては母国語である日本語を日常、何不自由なく使いこなしているからに他ならない。このような状況で日本語の会話力など誰も問題にしない。要するに会話力等というものはない。それは何か特別な訓練や修練を必要とするものなどではない。
 

2「使える英語」?

 新聞紙上の書物の宣伝で「使える英語~」といった言い方に出会うことは結構ある。発想を変えて「使えない英語」などというものがあるのだろうか。確かに中学校や高校の英語テキストに登場する英語のスタイルは口語の会話を練習させる部分でさえ、極めて堅苦しい口語らしからぬ言い回しや表現が多い。さりとて、中学校と高校の6年間で修得することになっている課程をきちんと学習者が定着させられていたら「英会話」を含めて相当なことが可能である。どこの国の人間であれ、日常の言語生活で、極めて専門的な用語などを使うこは希であるし、理論的な問題を議論したりすることも殆ど無い。そのようなことが日常茶飯事にあれば、日常生活は実に息苦しいものとなってしまう。
 

3 日本人は「読み・書きは出来るが話せない」?

「英語を読み、書き出来たら話せる」といった言い方は過去においてはよく行われてきた。この主張はそれなりに妥当である。日本人が取り立てて英語が出来ないということも事実ではない。言語系統の違いによって比較的易しく感じるか難しく感じるかという差異はある。幾つかの専門研究の報告によると、国籍・年齢の如何を問わず、アメリカで生活する外国人が英語を第二言語として身に付けて行く際に犯す英語の多様な文法形態素(例えば、複数の-s、三単現の-s、過去分詞の-edなど)や文法構造の構成(例えば、否定文の形成など)の過ちがどのような順序で出現し、根絶されて行くかという過程には同じような傾向があるという。ちなみにこれに酷似するプロセスが母国語として英語を習得する幼児の場合にも観察されている。
 
 さて、「読んで、書けたら話せる」という言い方は裏返せば、「読んで、書けないから話せない」をも示唆している。この「読んで、書けたら話せる」の、例えば「読む」はどの程度の、あるいはどのようなレヴェルの「読む」なのかは別に改めて記述したい(第6回参照)。ここ20年くらいに亘って「コミュニカティヴ」な教授の仕方で中学校・高校で英語が教えられて来ている。確かに口頭で英語を実践的に使わせることに意味がないとは言わないが、ろくに英語も読めず書けもしない学習者に内容のある発言を求めることは元来不可能である。このような教えられ方で6年間を過ごした学習者は(意欲的な者は除いて)英語の「読み」、「書き」、「聞き」、「話す」という4技能のいずれを考えても十分に習得しないままに英語学習を終えてしまい、極めて中途半端な状況にいることが多い。40年くらい前の英語教育と言えば、「文法・訳読方式」というやり方が行われていたし、大学への受験英語(本来このようなものも存在しない)なる対策が行われ、徹底して文法(構造)が学習者の頭の中に叩き込まれた。そのお陰で英語が出来る学習者は今よりも遙かに沢山いた。ただし、文字通り、「文法・訳読」が中心であったから「聞き」、「話す」訓練は学習者任せになっていたし、多くの学習者は殆ど何もしなかった。
 

4「英会話力」とは

「会話力」という言い方は、要するに、ある特定の場面(例えば、ホテルでのチェック・インなど)で一連の言葉の遣り取りの会話において(発音、文法、表現の適切さなどを含めて)時宜を得た発言を行うことが出来る能力のようなことを漠然と指している。「発言する」ということは、極論すれば、口頭で即座に英作文を行っているということに他ならない。書かれた文なら、何度か見直して訂正も可能であるが、話し言葉は即座の反応であり、当座の問題である。したがって不正確な発音、デタラメな文構造では相手に理解してもらえない。このような事情で、「英会話力」といった何か妄信的な考え方が広まってしまったのかもしれないと筆者は考えている。 

Pocket
LINEで送る

中田 康行 (なかた やすゆき) 芦屋大学 臨床教育学部 40年以上にわたり大学の学部・大学院で英語学(統語論、意味論、さらに文法理論)を中心に教鞭をとる。 最近は、社会言語学、言語習得理論、語用論を中心に言語の多様な問題を研究している。 英語教育の領域をも研究の中に組み入れた最近の著述に『応用英語学の研究』(2019)、『英語実践力獲得への道』(2016)などがある。