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香りによる地方創生―維新の香りを全国へ―【第1回】

赤壁 善彦 (あかかべ よしひこ) 山口大学大学院創成科学研究科 教授

“香り”は目には見えないが、私たちの普段の生活の中で重要な意味を持つ。今回の連載では、香りの面白さや不思議さに魅了され、研究を続けてきた筆者が、地元の人たちとのふとした会話などから新しい食材や商品の開発につながった瞬間や、その後の展開を紹介。香りの秘めた力と、香りを要にした地方創生について論じる。

第1回 「ニオイ(香り)の面白さ、不思議さ」

世の中に、200万種くらいの有機化合物が存在しますが、その1~2割の20~40万種くらいがニオイを持つ化合物といわれています。その内、ヒトが識別できるニオイは1万種と考えられています。ただ、よほど訓練を積まないとこのようなニオイを嗅ぎ分けることはできず、熟練したヒトでも嗅ぎ分けられるのは5千種程度といわれています。当然、まだ知られていないニオイ成分は数多く存在すると考えられます。このような化合物は、そのまま放置しておくと大気中に拡散(揮発)してしまいます。ニオイは目には見えませんが、普段、我々は、このようなさまざまな化合物に包まれて生活しており、多くの刺激や情報を得ています。また、寝ている間さえもニオイに影響を受けています。

 

ところで、私にはニオイの伴う記憶があります。まだ小さい頃、夏の昼寝時や海水浴で、祖母がそばに座って扇子で風を起こしてくれました。その扇子の白檀のニオイが非常に強く、息苦しく感じて体をねじっていると、祖母は暑いのかと勘違いして、扇ぐ力を強くして、余計そのニオイに悩ませられるといった記憶があります。また、早朝、コーヒー、焼けたトースト、ポテトサラダの蒸したジャガイモのニオイで目を覚まし、食後の母と祖母の化粧品とヘアスプレーのニオイを合わせて嗅ぐと、今日は出かけて、買い物や外食ができると思って心弾みました。普段、単身で仕事に出ている父が久しぶりに帰って、手渡してくれるお土産は、必ずタバコのニオイが浸みていました。同じニオイを嗅いだ瞬間、今でもその情景を想い出します。不思議ですが、ニオイが伴う想い出は、何歳になってもその情景は色褪せることなく、鮮明なままです。フランスの文豪、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」に登場する主人公が、紅茶に浸したマドレーヌのニオイを嗅いだことがきっかけで、幼少時を想い出す描写から名付けられた、ニオイが記憶を呼び覚ます効果を“プルースト効果”といいます。このようなニオイがきっかけとなり、記憶が蘇ったという似た経験を持たれる方は多いでしょう。

 

また、普段の生活の中で、我々は不思議な会話をすることがあります。例えば、「さっき、カレー食べた?」「お昼、餃子食べた?」「昨日、焼肉食べた?」と言ったり、言われたことはありませんか。その食べ物が目の前にあるわけではないのに、その料理を当ててしまうことがあります。それは、相手の口臭のニオイを感じ取って食材を予想し、調理したメニューを想像することができるからです。例えば、食べ物の場合、我々が食事する際に見た目は大事ですが、最終的に食べられるかどうかは、鼻の前に持ってきて(行儀はよくありませんが)、ニオイを嗅いで、最終判断します。あるいは、食べられると分かっていても、苦手なものを無理やり食べる場合は、鼻をつまんで口へ入れます。美味しそうなニオイであれば口に入れますし、腐ったニオイですと遠ざけます。今まで嗅いだことのない不思議なニオイは警戒します。目の前の物が食べられるかどうかの判断は、無意識に鼻で嗅いで最終的に判断します。このように、ニオイに関わる会話や行動は、我々誰にも経験があり、無意識に行なっていることです。すなわち、我々が生きていくための大切な感覚です。

 

トムヤムクンや生春巻きは、日本人において好き嫌いが分かれるところですが、その理由は、食材として使われているハーブの一種であるコリアンダー(タイではパクチー、中国ではシャンツァイという)が原因です。このハーブには独特のニオイがあるため、好き嫌い(美味しい、美味しくない)が分かれるのです。すなわち、ニオイが美味しさの基準を決定しているのです。日本人はマツタケをキノコの王様といい、最高の香りと評価します。しかし、欧米ではトリュフが最も良い香りといいます。欧米人はマツタケのニオイを嗅いでも、それほど良いニオイであると評価しません。一方、日本人もトリュフのニオイを欧米人が評価するほど、すばらしいニオイとは評価しないでしょう。このように、ニオイの好き嫌いには、食文化も大きく影響を及ぼします。さらに、日本人は、古くから発酵の食文化があり、納豆や糠漬けを好んで食べます。また、塩辛、鮒鮨(ふなずし)、くさやなどの発酵食品もあります。ニオイタイプは共通していますが、そのニオイの強さで好き嫌いが分かれるところです。これも、ニオイが好みに影響を及ぼしている例です。このような食材の食経験のない欧米人は、このニオイを「腐っている(発酵ではなく、腐敗している)」といって、口に入れようとはしません。我々日本人も、韓国のエイを発酵させた刺身“ホンオ・フェ”やスウェーデンのニシンを発酵させた缶詰(世界一くさい缶詰)“シュール・ストレミング”は、食べることを躊躇してしまいます。食経験や食文化の違いですが、いずれもニオイによって美味しさを判断しているのです。このように、ニオイがヒトの嗜好性(しこうせい)に影響を及ぼすことは少なくありません。

 

私は、あらゆるニオイに注目して、自然(植物、動物、昆虫、微生物)や生活環境中に放出されるニオイ(建材、雑貨、ヒト、家畜、ペット)、農林畜水産物(野菜、果物、花、肉、魚介、海藻、キノコ)およびその加工食品の香りを分析しています。また、その発生メカニズムや本来持つ生理的役割、例えば、フェロモン(同種間で働く物質)、アレロケミカル(異種間で働く物質)を究明しています。さらに、香りの持つ機能性(抗酸化、抗菌)を発見し、応用(機能性食品、フレーバー、フレグランス、消臭)へ役立てています。

 

一方で、ヒトにおいては感情の変化、嗜好性、覚醒や鎮静などといった生理応答を引き起こすなど、ニオイの作用は複雑で、研究テーマとして非常に面白く、興味は尽きません。ところが、このようなニオイの研究は、あまり知られていないのが現状です。そこで、学外の方を対象とした公開講座、高校生や教諭を対象とした出前講義、より専門的な方を対象とした講演会などを10年以上継続して行い、ニオイの持つ重要性を唱えてきました。また、その研究内容の特殊性により、ニオイに関する問い合わせや研究依頼を県内外よりいただいています。これまで、地元企業の方々と、香りを前面に押し出した商品開発を手掛けてきました。

 

この連載では、全部で4回にわたって香りに注目した食材や商品の開発とその後の展開を紹介し、さらには香りの秘めた力と香りを要にした地方創生について述べたいと思います。

 

註)文章中の「ニオイ」とは、好ましい匂い、好ましくない臭いを含めた場合を表しています。「香り」は、好ましい匂いのみを表しています。

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赤壁 善彦 (あかかべ よしひこ) 山口大学大学院創成科学研究科 教授 1994年、岡山理科大学大学院理学研究科博士課程材質理学専攻修了(博士理学)。
東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻退学後、山口大学農学部助手として採用。同助教授、准教授、教授を経て、2017年より現職。

専門は、香料化学、有機化学、天然物有機化学。主な研究は、農林水畜産物および加工食品の香気成分分析と生成メカニズム、香料素材の合成、香りの人に対する生理的変化、機能性食材や食品の開発、フェロモンやアレロケミカルの探索など。