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「美しい国」の構造分析【第4回】―日本農村社会学再考―

中筋 直哉 (なかすじ なおや) 法政大学社会学部教授 地域社会学・都市社会学専攻

「『美しい国』の構造分析:日本農村社会学とは何だったのか?」
日本の社会学のなかでも独特の消長を見せた日本農村社会学の魅力を省みながら、現在の中山間地域問題、コミュニティ問題への応用可能性を探る。

第4回:日本農村社会学のフィールド その1―岩手県八幡平市石神

私は「美しい国」の社会学者の端くれだが、この学問にはどうしても好きになれないところがある。それはまるで所轄署の刑事(デカ)よろしく、「現場百回」とやかましく言い、理論のエレガントさより、フィールドワークの汗臭さが買われるところである。もちろん哲学ではないのだから事実に基づく方がいいことは分かるが、「百回」通う必要があるのだろうか。それより、問題関心があってはじめてフィールドが求められるのだし、そのフィールド通いも「百回」である必要は全くないのではないだろうか。
 
日本農村社会学の創始者である鈴木栄太郎や有賀喜左衛門、完成者である福武直も、まず問題関心があってフィールドを求めたのだし、そのフィールドもけっして「百回」でもなければ、必然の出合いでもなかった。むしろ偶然で、限られた出合いだったのである。

 
有賀喜左衛門の最初の著作『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度と名子制度』(1939)のフィールド、現在の岩手県八幡平市石神を有賀がはじめて訪れたのは、1935年の夏だった。旧制第二高等学校の同級生で、企業人としての余暇に民俗学を志した渋沢敬三(1896-1963)の勧めにより、同じく同級生の、東京帝大経済学部助教授土屋喬雄(1896-1988)と2人で調査したのである。渋沢がこの地を選んだのは余暇旅行の通りがかりの偶然であり、柳田国男の『石神問答』(1910)の連想からだったという。一週間の短い滞在で(出張復命書のように)報告書をまとめるつもりが、だんだんと深入りしたくなり、半年後に今度は一人で再調査に赴いた。さらに深入りしたくなったが、自分の生活上も対象者の生活上もそれは難しかったので、手紙による質疑応答を続けた。

 

著作をまとめた後、敗戦と農地改革を挟んだ長い疎隔があって、次に訪れたのは1958年だった。さらに1966年の訪問記も加えたものが著作集Ⅲ巻として1967年に再刊された。結果として1つのフィールドに30年以上関わったことになるが、やはりそれは偶然であり、かつその間つねに関わっていたわけではなかった。
 

ただし有賀は、石神の調査結果を何度も論文に書いている。ちょうどB.K.マリノフスキ(1884-1942)がただ1回のトロブリアンド諸島でのフィールド経験を繰り返し書いたように。そして有賀は、再刊の冒頭で「私はこの部落を通して日本の運命を見ていたのかも知れないし、私自身の運命を見ていたのかも知れない」と述べている。

 
私は学部時代の農村社会学の授業でこの研究に興味を覚え、今の職場に転職した2001年、盛岡出張のついでに石神(当時は安代町)を訪れた。タクシーで見て回るだけのつもりだったのが、珍客にノッた運転手が、「じゃあ、斎藤さんに会いましょう」と、早朝の斎藤家の呼び鈴を押してしまった。寝間着姿で現れた老人は、有賀の著作の口絵写真1に、巨大な母屋の前で敬礼する姿を撮られた、当時は高等小学校生だった方男(みずお)さんである(写真は渋沢の撮影で、1934年当時のものだが、初版には収録されていない)。明らかに迷惑そうだったが、さすがは長く村(合併後は町)の要職を務めた旧家の当主、ていねいに挨拶され、ひと通り家と敷地を案内してくださった。巨大な母屋は戦時供出され、今の母屋は小さく建て替えられたものである。それでも十分に巨大だった。

 
暇を告げる頃、方男さんは私を裏庭に連れて行き、1本の小さな木を指さした。「このオンコ(イチイ)の木が私の最後の誇りです。先祖が加賀から持って来たのです」。東京に戻ってから、私の疑問はだんだん大きくなった。たしかに斎藤家が「加賀助」の屋号と、戦国時代に移民してきた伝説を持つことは、有賀も書いている。しかし木のことはひと言も書いていない。再度著作を開くと、口絵写真2に木は写っているが、説明はない。
 

さらに私を混乱させたのは、それから2年後、社会調査実習という授業を担当することになって、私は迷わず学生を石神に連れて行くことにしたのだが、案内してくれた町役場の人に言わせれば、斎藤家は「うるし屋さん」なのだった。たしかに石神は浄法寺塗の産地で、有賀も触れており、口絵写真3に写る「召使」の法被の襟にも「斎藤漆器部」とある。しかし私はそのときまで、有賀は日本の稲作農家の理念型を描き出したのであって、マニュファクチャー(手作業の原型的な工場)の一形態を分析したのではないと思っていた。そのうえ話を聞いて回るに連れ、村の人びとの斎藤家への距離感ばかりが耳に入ってきた。決して悪意ではなく、1つにはかつて偉すぎたということ、もう1つは、にもかかわらず村の最初からのメンバーではなかったということだ。私は方男さんに手紙を書き、もう一度会ってほしいと懇願した。しかし奥様からの電話は「会いたくない」との言づてだった。そしてすぐに方男さんは亡くなられた。
 

その後も7年ほど私は八幡平市に通い続けたが、結局斎藤家も石神の他の家々も訪ねる勇気がなかった。私はこのフィールド経験をまだ論文にすることができない。
 
 

追記

石神を有賀とともに調査した土屋喬雄は、その成果を「名子部落を訪ねて」(1936)として発表した。これは土屋の単著『日本資本主義史論集』(1937)に再録された。今回その内容を確かめるために探してみると、わが法政大学図書館には旧版も1947年再版も収蔵されていて、うち1冊は、土屋がマニュファクチャー論争の論敵だった服部之総(1901-1956)にあてた自筆献辞入りだった。
 
 
 

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中筋 直哉 (なかすじ なおや) 法政大学社会学部教授 地域社会学・都市社会学専攻 1966年神戸市生まれ
東京大学文学部卒、東京大学大学院人文社会系研究科博士後期課程修了、博士(社会学・東京大学) 東京大学助手、山梨大学助教授を経て、2001年より法政大学勤務

著書・編著:
『群衆の居場所:都市騒乱の歴史社会学』(2005,新曜社)
『よくわかる都市社会学』(五十嵐泰正と共編著,2013,ミネルヴァ書房)
ひとことPR:
17年間社会人大学院で政策研究に取り組む社会人を教えてきました。50人近い修了生が私の自慢です。